絶対、陰毛っていらなくない?

陰毛って何の為にあるの?本当にわかんないんですよね。
めちゃくちゃ不衛生じゃないですか?私は特に普通の人より体中のあらゆる箇所の毛量が多いので、とかく陰毛も量が多くて邪魔。生理の時とか全剃りしたい衝動に何度襲われたことか。
陰毛が役に立つのは石けんを泡立てる時だけ。でもこれやってんのこの世で私と斎藤工だけかも知んない。いや、マジで言ってたもん斎藤工。しゃべくりで。陰毛で泡立てるって言ってたもん。嘘じゃないんですけど。

と言う訳で私の2019年の目標は医療脱毛でパイパンにすることです。

めちゃくちゃ痛いらしい。陰毛の永久脱毛って。そりゃそうか。毛根も立派だし、毛穴も密集していて毛量も多くて、頭髪並みだし。そこを一つ一つ毛穴焼却していく訳でしょ?そりゃあ痛いわ。人道に反しているわ。やってることが。
でもいらないんですよね、陰毛。ほんとに。
誰に見せる訳じゃないから、陰毛がなくたって誰も好奇の目で見てくる訳じゃない。銭湯では隠せば良いし。だから私はパイパンにしたいんですよね。
パイパンになった自分を想像すると清々しくてたまらない。何も気にせずにビキニを着て、パンツをはけて、そして蒸れないし。パンツえらぶときに通気性重視じゃなくても良くなるし。私いまはもっぱら、綿で出来たボクサータイプのパンツしかはかなくなってしまった。陰毛が邪魔だから。でもパイパンになったら可愛いデザインの全然のびない生地のパンツ履きたいよね。脇が紐のやつとか履きたいね。今は毛が邪魔で無理です。今は正直トランクスが履きたいけど女性用って売ってないんですよね。私も全ての下着トランクスにしたい。

女性がある程度の年齢になれば、皆こぞって脱毛をはじめるのがちょっと不思議なんですよね。だって脇毛とかすね毛とか、どうでも良くない?生えてても不衛生じゃないから。
でもまあ、それはその人の自由だから。だから女性で脇めっちゃ生えててもすね毛ぼーぼーでも、男性が全身脱毛してても、その人の自由だから好きにすれば良い。私たちは身体に生えてる毛一つとってもむちゃくちゃ不自由な世界に生きているとおもう。エチケット、マナー、そういうのもうどうでも良くないですか?

齢が25超えた辺りから、自分の為に生きることばかりを考えるようになって来た。人にどう思われるかではなく、もっと奥深く、自分が快くおもうことを重視して生きていった方がずっと楽で自由だと言うことを、常々考えるようになった。
不思議なことではなくて、他者への諦観が在る程度育って来たと言うことなのだろうとおもう。誰かに希望を持ってもその人が私を助けてくれることはない。

今、韓国の方のエッセイ*1を読んでいるんだけど、これは色々な歌についての筆者の思いなどを綴った小話が並んでいる。そこで触れられているある歌の中に、こんな一節があった。

”私が自分の魂を売りわたしたとき/あなたは買い戻してくれて/私を支えてくれた”

しかしそのエッセイには続いて、そのような人(=魂を買い戻してくれる人)は居ないと理解していると言う言葉で結ばれている。

私も同じ気持ちで居る。そんな人は居ないんですよね現実。私の魂を買い戻してくれる人は居ない。だから私たちは、自分の魂を売ってはならないのだと、逆説的に理解をしているのだ。

私がパイパンにしたら笑う人がたくさん居るだろうなとおもうけど、それはどうでも良いことだ。それをしないことでいつまでも不快で苦しい思いをするのは私だから。

正直言ってここまで生きて来て、売ってしまった魂がたくさん在る。そしてそれで傷ついて来たことも山ほどある。でもその魂は誰も買い戻せない、傷ついた心は元に戻らず傷ついたままだ。だから私はこの先、わずかでも自分の魂を売ることがないようにしたいと願っている。
ともに居ることで知らず知らずのうちに自分の魂を削り売ってしまう人というものは確かにこの世に存在する。DVとか虐待みたいな目に見える形ではなくとも、そのような相性の人がこの世にはいる。それが悪いとかそう言う話ではなく、私はそのような物をどんどんと隔絶しまくっていると言う話だ。それでもう、どんどんとクローズドな人付き合いになってしまっている。この世の物体や人間関係からありとあらゆる不快を隔絶し、そこに残った僅かな物を摂取して生きている。あまりに退屈な生き方だが、自分がえらんだ物なので仕方がない。
でもせめて、残った僅かな人々には幸せで居てほしいと本当におもっているので。
だから私は魂を売ってしまった人に、自業自得とか、自分の選択だからと言って突き放すことはしたくない。手を取り、もう売り払わなくても良いように、ともに生きていきたいと願っている。私の身近な人だけはせめて、もう魂を売らなくても良いように。あるいは売ってしまった魂を買い戻してあげることは出来なくても、削り取られた魂の傷が膿まないように、静かに見つめ続けたい。
私たちは魂を買い戻せないが、その傷をいたわることは出来ると信じていたいのだ。その行為を愚かだと笑うのではなく、もう苦しまぬように祈ることが出来ると、そう信じていたいのだ。