わたしを試さないで

 眼球がめちゃくちゃ痛い・・・・・。
 正確には眼球の上の、眉と瞳の間のスペースが痛い。ついでに頭痛もする。これは明確な眼精疲労である・・・おもえば私の趣味、映画見たり本を読んだり漫画を読んだりソシャゲしたりネサフしたり物を書いたりと、目を使うことばかりだった。おまけに仕事はデスクワークで一日中PC画面をみているのだから、疲れて当たり前なのだ・・・。
 仕方がないので大嫌いなメガネをかけて生活したり、高い目薬を買ったり、メガネを新調したり、ヘッドスパに行ったりしている。とはいえ目を使うことは控えた方が良いだろうと言う独自の判断で、ソシャゲについてはある特定の時期から、プレイ自体を控えている。そのおかげで今回のバレンタインイベはどのソシャゲでも大変中途半端な結果しかえられず不本意ではあるのだが、まあ健康にはかえられないところである。

 本を読むのは続けている。短編集やエッセイをえらび、そこから小説や短い節を一つずつ読んでは休憩を入れ、物語に思いを馳せると言うのは、目の使い方からしてもなかなか懸命且つ利口である気がするので。
 いまはあまりにも真昼の恋愛と言う、韓国の短編集を読んでいる。私もあまり詳しくないのだが、韓国はいま傍目から見ても文学がアツい。とりわけ現代小説にこと関しては世界で一番アツいんじゃないかな、とおもう。話題になっている82年生まれ、キム・ジヨンなんかはフェミニズム的にも大変話題になっている訳だし・・・。なんでも韓国ではセウォル号以降の文学と言うジャンル?流れが在るらしく、現状の立ち位置や社会に懐疑的なムーヴメントが在り、その潮流を汲取り、感度の高いアンテナでいち早く表現したのが小説なのだろう(詳細はわからないのだが)。いつの時代でもどの時代でも、社会が変革するとき文学はともにあったので、韓国自体がそう言う動きなのだろうとおもう。そう言った流れが在ることは、うらやましい限りだ・・・。

 そういうわけで、今読んでいる本は大変面白い。正直言うとなかなか難解で、一読しただけで意味が分かる物は少ない。だけれどもどの話も一貫して滋味深く、そして恐ろしい程空虚な心持ちを覚える。寂寞とした空恐ろしい自己への不安。これが韓国の社会に根ざした感情だとしても、その奥の根源的な感情は理解が出来る気がするのだ。

 それはそれとして、私は過去に数少ないけれども人とつき合ったことが在るのだが、どの人とつき合っても100発100中でされたことがあり、それは付き合いはじめのときに本を渡されると言うことだった。
 付き合いの深い人から本を渡されると言うのは得難い経験なのだろうとおもう。自分を良く知る人が、自分のことに思いを巡らせ、自分の為だけに選んでくれた本は、大変価値がある。それは双方向の信頼関係と思いやりからなされるコミュニケーションである為だ。しかし私の場合はそれと違い、ごくごく浅い付き合いの、一番はじめの入り口部分において、わざわざ私が読んだことのない、そしてその人が好きな本を、プレゼントされ続けているのだった。
 それをされると私はなんとなくいや〜な気持ちになっていたのだが、理由はわからなかった。ただ、なんでこの人は、私が好きなものではなく、私が好きそうな物でもなく、自分が好きな物をくれるのだろうとおもっていた。
 いまになって考えればわかる、それはいわゆる「ためし行動」みたいな物なのだろう。要は彼らは、その人(対象。この場合は私)がどんな人物なのか推し量る為にいくつかの手段がある中で、一番手っ取り早い方法をえらんだのだ。その方法とは、自分が好きな物、価値のあるとおもう物を対象に与え、どんな反応をするか見る。そして、その反応で、自分と対等に付き合うに足る人物か図るというものだった。
 その人たちが私にどんな反応を期待していたのかはわからない。ただし、私はもらった本を一度たりとも読んだことがない。彼らがくれた本はいずれも私の趣味ではなかったし、有名な物だった。有名で、深遠な文学。でも私は読まなかった。その本との巡り合わせが、薄汚れた物になる気がして嫌だった。純然たる文学の美しさが損なわれる気がした。いや別にそんな大層な話じゃないな。もっと正直に簡潔に言うと、私が巡り会うはずだったときめきや喜びを、先回りしてお膳立てされることへの嫌悪だったのだとおもう。
 本との出会いは喜びに満ちている。図書館や本屋に並ぶ何冊もの本の中から、ジャンルや作者、時には勘で見つけあてた本を開き、読んでいく。それが自分お好みに合致した時の喜びはひとしおだ。だからこそ、浅はかな思惑で手渡された本を読んでたまるかと妙に頑固な自分がでてきたのだとおもう。
 本を渡すと言うことが世の中で大きく美徳として語られていることが私には疑問だった。しかし長い付き合いの中で、その人の為をおもって渡された本はきっと、ひとりでに探し当てた本と同じくらいの光を放ち自分の中で大切にしまわれる物なのだろう。多くの世の人はその行動を美徳と呼んでいるのだろう。もっともこれについても経験のないことなので、全くの想像に過ぎないのだが・・・。
 私を試す人との付き合いは長くは続かなかった。といっても最短半年くらいは続いていたし長い場合は2〜3年と言う時もあった。しかし本を渡されたのはひとりにつきたった一度だけで、その後はそういったことはないのだった。おそらく私が大変頑固で、人からすすめられたものには手を付けない難儀な性格であることが、つき合ううちにわかったためなのだろう・・・そういえば私は二次元ジャンルにおいてもよっぽどのことがない限り、人からすすめられた物にはハマらない・・・・・・そう言った経緯でどっぷりハマったのは忍たま乱太郎くらいの物である・・・・・・今のは余談だったが、とにかくそのためし行動は一人につき一度のみ、しかし必ず行われたのだった。
 いまとなっては私の性格が引き起こしたものなのか、それとも彼らに共通する心理があったのかは不明である。しかし何れにしてもあまりに不愉快であったので、それを行われるたびに私は少し苦笑してありがとうと本を受け取り、鞄にしまい込んでそれっきりであった。

 本との出会いもそうだが、本を読めば感想を求められるだろう。そこについてもなにかしら汚されるようで嫌だった。
 私の気持ちは、私だけの物であるので。解釈、歴史的背景、作者の心理状態・・・いくつでも私の感想にケチをつけようとおもえばつけられる。なぜなら渡された本は彼らの独壇場である為だ。
 昔つき合っていた人に、何か最近本を読んだかと訪ねられたことがある。そのとき私は著名なイギリスの女流作家の短編小説集を読んでいた。その作家には有名な作品が他にいくつか在ったが、私は別口からその作家を知った為、短編集の方を読み、その筆力の高さにうっとりとしていたのだった。しかしそれを知ったその人は、その作者の一番有名な作品について語り出した。自分の研究対象から近く、授業で習ったと言うことで、作者の生い立ちや有名な作品のあらすじを、まるで生徒に授業をするように。
 しかしそれは本のあとがきや、作者のWikipediaを読めばわかるようなことだったので、大抵の話は既に知っていた。目新しい話でもなければ、興味もない。だいたい、教えてあげるという態度も妙だとおもった。そちらは授業で習ったかもしれないが、こちらは純粋な興味で読んでいる。そこに優劣等なく、作品の楽しみ方も人それぞれなはずだ。わたしは彼女の作品の、重い布のカーテンの隙間から光が差し込むかのような、あるいは埃を被った黴の匂いのする廃墟を覗き見ているような静謐な描写に耽溺し、湿った空気がにおい立つような思いをしながらわくわくと薄い頁を捲った、その体験を大事に大事におもっていた。しかしその体験をまったく無味乾燥と踏みにじられたような心持ちになった。被害妄想と言えばそれまでだが、勝手に講義をされることのありがた迷惑さは、名臥しがたい屈辱が在った。私の思いや心に勝手に点数をつけたり、貴方の無知をただしてあげるというような態度が透けて見えていた。後にそれがマンスプレイニングと言うのだということを知ったけれど、当時はただ、なんとなく、自分の心を乱雑に扱われたような屈辱だけを感じていた。

 そういうわけで私は人に何かの感想を言うことは控えている。この世はあまりに、教えたがりな人が多いからだ。無知な貴方に教えてあげる、あるいはその感想は浅はかだから本当の解釈を教えてあげる、そういう風に上から人を屈服させたがる人があまりに多い。貴方の感想を聞かせてご覧よ、それが正しい物か教えてあげるから。マンスプレイニング、あるいはためし行動の意図はだいたいこんな感じだ。
 それは穿った見方をし過ぎだとおもわれることも重々承知なのだが、それはその人がためし行動をされたことがないので言えることだともおもう。なぜなら本を手渡す時の彼らは皆同じ表情で、同じような目をして、同じようなことを言った。君に読んでほしいんだよね。と。私のことを知らない人が、私の好きではない、私のことをおもっていない選択の本を手渡す時は皆、先生の目をしていた。私は、読書感想文を、それもとびきり上出来で、だけど少し稚拙なところがある、大変教えがいのある生徒の文章を求められているのだ。

 私は自由に本を読み、自由に映画を見て、自由に音楽を聴いている。ライブに行くのはしない、だって大きい音が苦手だから。映画の感想は誰にも言わない、本も同じく。でも好きだから少しだけ文章にして綴って、信頼たる人に公開することもある。あるいは同じ志を持った、大変信頼できる人と少しだけ語り合うこともする。
 私の心は自由なので、それが出来る。しかしその一方、私自身も無意識下でためし行動をしそうになる時がある。人は自分の好きな物や仕事、研究対象に関しては皆一家言あるものだし、誰かに何かを教えると言うことは俺だけで気持ちのいい物なので、しかたがない。でも最近は、それをしそうになるとぐっとこらえるようにしている。誰かに強要されたり、バカにされたりしながらであった物は、本来の美しさやきらめきを失ってしまう。この世の多くの物との出会いを、そんなつまらないことで色褪せたものにしてしまうのは、あまりにもったいない。私は誰のことも試してはならない。そして誰も私のことを試さないでほしい。私たちは自由に本を読めるはずで、物に触れて良いはずで、その邂逅や思いを邪魔することは誰にも出来ないはずだ。それに私は今のところ、正直言って、なにについての先生も必要としていないのです。