わたしを試さないで

 眼球がめちゃくちゃ痛い・・・・・。
 正確には眼球の上の、眉と瞳の間のスペースが痛い。ついでに頭痛もする。これは明確な眼精疲労である・・・おもえば私の趣味、映画見たり本を読んだり漫画を読んだりソシャゲしたりネサフしたり物を書いたりと、目を使うことばかりだった。おまけに仕事はデスクワークで一日中PC画面をみているのだから、疲れて当たり前なのだ・・・。
 仕方がないので大嫌いなメガネをかけて生活したり、高い目薬を買ったり、メガネを新調したり、ヘッドスパに行ったりしている。とはいえ目を使うことは控えた方が良いだろうと言う独自の判断で、ソシャゲについてはある特定の時期から、プレイ自体を控えている。そのおかげで今回のバレンタインイベはどのソシャゲでも大変中途半端な結果しかえられず不本意ではあるのだが、まあ健康にはかえられないところである。

 本を読むのは続けている。短編集やエッセイをえらび、そこから小説や短い節を一つずつ読んでは休憩を入れ、物語に思いを馳せると言うのは、目の使い方からしてもなかなか懸命且つ利口である気がするので。
 いまはあまりにも真昼の恋愛と言う、韓国の短編集を読んでいる。私もあまり詳しくないのだが、韓国はいま傍目から見ても文学がアツい。とりわけ現代小説にこと関しては世界で一番アツいんじゃないかな、とおもう。話題になっている82年生まれ、キム・ジヨンなんかはフェミニズム的にも大変話題になっている訳だし・・・。なんでも韓国ではセウォル号以降の文学と言うジャンル?流れが在るらしく、現状の立ち位置や社会に懐疑的なムーヴメントが在り、その潮流を汲取り、感度の高いアンテナでいち早く表現したのが小説なのだろう(詳細はわからないのだが)。いつの時代でもどの時代でも、社会が変革するとき文学はともにあったので、韓国自体がそう言う動きなのだろうとおもう。そう言った流れが在ることは、うらやましい限りだ・・・。

 そういうわけで、今読んでいる本は大変面白い。正直言うとなかなか難解で、一読しただけで意味が分かる物は少ない。だけれどもどの話も一貫して滋味深く、そして恐ろしい程空虚な心持ちを覚える。寂寞とした空恐ろしい自己への不安。これが韓国の社会に根ざした感情だとしても、その奥の根源的な感情は理解が出来る気がするのだ。

 それはそれとして、私は過去に数少ないけれども人とつき合ったことが在るのだが、どの人とつき合っても100発100中でされたことがあり、それは付き合いはじめのときに本を渡されると言うことだった。
 付き合いの深い人から本を渡されると言うのは得難い経験なのだろうとおもう。自分を良く知る人が、自分のことに思いを巡らせ、自分の為だけに選んでくれた本は、大変価値がある。それは双方向の信頼関係と思いやりからなされるコミュニケーションである為だ。しかし私の場合はそれと違い、ごくごく浅い付き合いの、一番はじめの入り口部分において、わざわざ私が読んだことのない、そしてその人が好きな本を、プレゼントされ続けているのだった。
 それをされると私はなんとなくいや〜な気持ちになっていたのだが、理由はわからなかった。ただ、なんでこの人は、私が好きなものではなく、私が好きそうな物でもなく、自分が好きな物をくれるのだろうとおもっていた。
 いまになって考えればわかる、それはいわゆる「ためし行動」みたいな物なのだろう。要は彼らは、その人(対象。この場合は私)がどんな人物なのか推し量る為にいくつかの手段がある中で、一番手っ取り早い方法をえらんだのだ。その方法とは、自分が好きな物、価値のあるとおもう物を対象に与え、どんな反応をするか見る。そして、その反応で、自分と対等に付き合うに足る人物か図るというものだった。
 その人たちが私にどんな反応を期待していたのかはわからない。ただし、私はもらった本を一度たりとも読んだことがない。彼らがくれた本はいずれも私の趣味ではなかったし、有名な物だった。有名で、深遠な文学。でも私は読まなかった。その本との巡り合わせが、薄汚れた物になる気がして嫌だった。純然たる文学の美しさが損なわれる気がした。いや別にそんな大層な話じゃないな。もっと正直に簡潔に言うと、私が巡り会うはずだったときめきや喜びを、先回りしてお膳立てされることへの嫌悪だったのだとおもう。
 本との出会いは喜びに満ちている。図書館や本屋に並ぶ何冊もの本の中から、ジャンルや作者、時には勘で見つけあてた本を開き、読んでいく。それが自分お好みに合致した時の喜びはひとしおだ。だからこそ、浅はかな思惑で手渡された本を読んでたまるかと妙に頑固な自分がでてきたのだとおもう。
 本を渡すと言うことが世の中で大きく美徳として語られていることが私には疑問だった。しかし長い付き合いの中で、その人の為をおもって渡された本はきっと、ひとりでに探し当てた本と同じくらいの光を放ち自分の中で大切にしまわれる物なのだろう。多くの世の人はその行動を美徳と呼んでいるのだろう。もっともこれについても経験のないことなので、全くの想像に過ぎないのだが・・・。
 私を試す人との付き合いは長くは続かなかった。といっても最短半年くらいは続いていたし長い場合は2〜3年と言う時もあった。しかし本を渡されたのはひとりにつきたった一度だけで、その後はそういったことはないのだった。おそらく私が大変頑固で、人からすすめられたものには手を付けない難儀な性格であることが、つき合ううちにわかったためなのだろう・・・そういえば私は二次元ジャンルにおいてもよっぽどのことがない限り、人からすすめられた物にはハマらない・・・・・・そう言った経緯でどっぷりハマったのは忍たま乱太郎くらいの物である・・・・・・今のは余談だったが、とにかくそのためし行動は一人につき一度のみ、しかし必ず行われたのだった。
 いまとなっては私の性格が引き起こしたものなのか、それとも彼らに共通する心理があったのかは不明である。しかし何れにしてもあまりに不愉快であったので、それを行われるたびに私は少し苦笑してありがとうと本を受け取り、鞄にしまい込んでそれっきりであった。

 本との出会いもそうだが、本を読めば感想を求められるだろう。そこについてもなにかしら汚されるようで嫌だった。
 私の気持ちは、私だけの物であるので。解釈、歴史的背景、作者の心理状態・・・いくつでも私の感想にケチをつけようとおもえばつけられる。なぜなら渡された本は彼らの独壇場である為だ。
 昔つき合っていた人に、何か最近本を読んだかと訪ねられたことがある。そのとき私は著名なイギリスの女流作家の短編小説集を読んでいた。その作家には有名な作品が他にいくつか在ったが、私は別口からその作家を知った為、短編集の方を読み、その筆力の高さにうっとりとしていたのだった。しかしそれを知ったその人は、その作者の一番有名な作品について語り出した。自分の研究対象から近く、授業で習ったと言うことで、作者の生い立ちや有名な作品のあらすじを、まるで生徒に授業をするように。
 しかしそれは本のあとがきや、作者のWikipediaを読めばわかるようなことだったので、大抵の話は既に知っていた。目新しい話でもなければ、興味もない。だいたい、教えてあげるという態度も妙だとおもった。そちらは授業で習ったかもしれないが、こちらは純粋な興味で読んでいる。そこに優劣等なく、作品の楽しみ方も人それぞれなはずだ。わたしは彼女の作品の、重い布のカーテンの隙間から光が差し込むかのような、あるいは埃を被った黴の匂いのする廃墟を覗き見ているような静謐な描写に耽溺し、湿った空気がにおい立つような思いをしながらわくわくと薄い頁を捲った、その体験を大事に大事におもっていた。しかしその体験をまったく無味乾燥と踏みにじられたような心持ちになった。被害妄想と言えばそれまでだが、勝手に講義をされることのありがた迷惑さは、名臥しがたい屈辱が在った。私の思いや心に勝手に点数をつけたり、貴方の無知をただしてあげるというような態度が透けて見えていた。後にそれがマンスプレイニングと言うのだということを知ったけれど、当時はただ、なんとなく、自分の心を乱雑に扱われたような屈辱だけを感じていた。

 そういうわけで私は人に何かの感想を言うことは控えている。この世はあまりに、教えたがりな人が多いからだ。無知な貴方に教えてあげる、あるいはその感想は浅はかだから本当の解釈を教えてあげる、そういう風に上から人を屈服させたがる人があまりに多い。貴方の感想を聞かせてご覧よ、それが正しい物か教えてあげるから。マンスプレイニング、あるいはためし行動の意図はだいたいこんな感じだ。
 それは穿った見方をし過ぎだとおもわれることも重々承知なのだが、それはその人がためし行動をされたことがないので言えることだともおもう。なぜなら本を手渡す時の彼らは皆同じ表情で、同じような目をして、同じようなことを言った。君に読んでほしいんだよね。と。私のことを知らない人が、私の好きではない、私のことをおもっていない選択の本を手渡す時は皆、先生の目をしていた。私は、読書感想文を、それもとびきり上出来で、だけど少し稚拙なところがある、大変教えがいのある生徒の文章を求められているのだ。

 私は自由に本を読み、自由に映画を見て、自由に音楽を聴いている。ライブに行くのはしない、だって大きい音が苦手だから。映画の感想は誰にも言わない、本も同じく。でも好きだから少しだけ文章にして綴って、信頼たる人に公開することもある。あるいは同じ志を持った、大変信頼できる人と少しだけ語り合うこともする。
 私の心は自由なので、それが出来る。しかしその一方、私自身も無意識下でためし行動をしそうになる時がある。人は自分の好きな物や仕事、研究対象に関しては皆一家言あるものだし、誰かに何かを教えると言うことは俺だけで気持ちのいい物なので、しかたがない。でも最近は、それをしそうになるとぐっとこらえるようにしている。誰かに強要されたり、バカにされたりしながらであった物は、本来の美しさやきらめきを失ってしまう。この世の多くの物との出会いを、そんなつまらないことで色褪せたものにしてしまうのは、あまりにもったいない。私は誰のことも試してはならない。そして誰も私のことを試さないでほしい。私たちは自由に本を読めるはずで、物に触れて良いはずで、その邂逅や思いを邪魔することは誰にも出来ないはずだ。それに私は今のところ、正直言って、なにについての先生も必要としていないのです。

絶対、陰毛っていらなくない?

陰毛って何の為にあるの?本当にわかんないんですよね。
めちゃくちゃ不衛生じゃないですか?私は特に普通の人より体中のあらゆる箇所の毛量が多いので、とかく陰毛も量が多くて邪魔。生理の時とか全剃りしたい衝動に何度襲われたことか。
陰毛が役に立つのは石けんを泡立てる時だけ。でもこれやってんのこの世で私と斎藤工だけかも知んない。いや、マジで言ってたもん斎藤工。しゃべくりで。陰毛で泡立てるって言ってたもん。嘘じゃないんですけど。

と言う訳で私の2019年の目標は医療脱毛でパイパンにすることです。

めちゃくちゃ痛いらしい。陰毛の永久脱毛って。そりゃそうか。毛根も立派だし、毛穴も密集していて毛量も多くて、頭髪並みだし。そこを一つ一つ毛穴焼却していく訳でしょ?そりゃあ痛いわ。人道に反しているわ。やってることが。
でもいらないんですよね、陰毛。ほんとに。
誰に見せる訳じゃないから、陰毛がなくたって誰も好奇の目で見てくる訳じゃない。銭湯では隠せば良いし。だから私はパイパンにしたいんですよね。
パイパンになった自分を想像すると清々しくてたまらない。何も気にせずにビキニを着て、パンツをはけて、そして蒸れないし。パンツえらぶときに通気性重視じゃなくても良くなるし。私いまはもっぱら、綿で出来たボクサータイプのパンツしかはかなくなってしまった。陰毛が邪魔だから。でもパイパンになったら可愛いデザインの全然のびない生地のパンツ履きたいよね。脇が紐のやつとか履きたいね。今は毛が邪魔で無理です。今は正直トランクスが履きたいけど女性用って売ってないんですよね。私も全ての下着トランクスにしたい。

女性がある程度の年齢になれば、皆こぞって脱毛をはじめるのがちょっと不思議なんですよね。だって脇毛とかすね毛とか、どうでも良くない?生えてても不衛生じゃないから。
でもまあ、それはその人の自由だから。だから女性で脇めっちゃ生えててもすね毛ぼーぼーでも、男性が全身脱毛してても、その人の自由だから好きにすれば良い。私たちは身体に生えてる毛一つとってもむちゃくちゃ不自由な世界に生きているとおもう。エチケット、マナー、そういうのもうどうでも良くないですか?

齢が25超えた辺りから、自分の為に生きることばかりを考えるようになって来た。人にどう思われるかではなく、もっと奥深く、自分が快くおもうことを重視して生きていった方がずっと楽で自由だと言うことを、常々考えるようになった。
不思議なことではなくて、他者への諦観が在る程度育って来たと言うことなのだろうとおもう。誰かに希望を持ってもその人が私を助けてくれることはない。

今、韓国の方のエッセイ*1を読んでいるんだけど、これは色々な歌についての筆者の思いなどを綴った小話が並んでいる。そこで触れられているある歌の中に、こんな一節があった。

”私が自分の魂を売りわたしたとき/あなたは買い戻してくれて/私を支えてくれた”

しかしそのエッセイには続いて、そのような人(=魂を買い戻してくれる人)は居ないと理解していると言う言葉で結ばれている。

私も同じ気持ちで居る。そんな人は居ないんですよね現実。私の魂を買い戻してくれる人は居ない。だから私たちは、自分の魂を売ってはならないのだと、逆説的に理解をしているのだ。

私がパイパンにしたら笑う人がたくさん居るだろうなとおもうけど、それはどうでも良いことだ。それをしないことでいつまでも不快で苦しい思いをするのは私だから。

正直言ってここまで生きて来て、売ってしまった魂がたくさん在る。そしてそれで傷ついて来たことも山ほどある。でもその魂は誰も買い戻せない、傷ついた心は元に戻らず傷ついたままだ。だから私はこの先、わずかでも自分の魂を売ることがないようにしたいと願っている。
ともに居ることで知らず知らずのうちに自分の魂を削り売ってしまう人というものは確かにこの世に存在する。DVとか虐待みたいな目に見える形ではなくとも、そのような相性の人がこの世にはいる。それが悪いとかそう言う話ではなく、私はそのような物をどんどんと隔絶しまくっていると言う話だ。それでもう、どんどんとクローズドな人付き合いになってしまっている。この世の物体や人間関係からありとあらゆる不快を隔絶し、そこに残った僅かな物を摂取して生きている。あまりに退屈な生き方だが、自分がえらんだ物なので仕方がない。
でもせめて、残った僅かな人々には幸せで居てほしいと本当におもっているので。
だから私は魂を売ってしまった人に、自業自得とか、自分の選択だからと言って突き放すことはしたくない。手を取り、もう売り払わなくても良いように、ともに生きていきたいと願っている。私の身近な人だけはせめて、もう魂を売らなくても良いように。あるいは売ってしまった魂を買い戻してあげることは出来なくても、削り取られた魂の傷が膿まないように、静かに見つめ続けたい。
私たちは魂を買い戻せないが、その傷をいたわることは出来ると信じていたいのだ。その行為を愚かだと笑うのではなく、もう苦しまぬように祈ることが出来ると、そう信じていたいのだ。

バーミヤンだけがこの世の真実なので

https://www.youtube.com/watch?v=QqfUOzmDNC4

さいこうのこうですね。
(とても良い音楽に対して頭のわるすぎるコメント)

突然ですが、バーミヤンって旨すぎませんか。バーミヤンはめちゃくちゃ安いのにうますぎるから、その偉業をもって星座として認定されたらしいです。ちょうど今の時期、きんとひえた冬の日の夜、南西の方角を見上げてください。あのいっとう輝く星、そこから右下に続く小さな星々をなぞっていけば、ほらバーミヤンの桃の形が見えてくるでしょう…あれがバーミヤン座です。
まあ嘘なんですが…。
こういうくだらなくて稚拙なうそばっかり言いながら生きていきたいんだけど、こういうのおもしろがってくれるひとってあんまいないのかなとおもいました。なんか、は?といわれて終わる、たいてい。悲しい。

意味のない作り話があってセックスの必要ない結婚生活だったらしてみたい。
だいたいの創作物、恋や愛の終着点がセックスなの嫌なんですけど。おい、粘膜の接触がそんなに偉いんか?となる。
映画見ても小説読んでも、真実の愛にたどり着こうとする番はセックス描写で成就を表現したがるから、え〜…となる。いらんいらん!
もう、なんか大喜利とかで代替しようよ。
二人でベッドにならんで座って、目についた物でお題を出し合って、答えて、笑ったりツッコミしたりして、そうしている二人の影は寄り添っていて、煌々と明かりのともった部屋がうつされている、そっちの方が随分愛じゃないですか?くっそくだらないお題と答えで笑いあえるのって愛じゃないですか?それでいいんですけど。しっとりベッドになだれ込むシルエットとか見せられても困るんですけど。それつまんねえ〜よ。
だいたいそういう時ってなんかスンと空気が冷え込む感じがして、じっくり見つめあったりして、部屋が薄暗くなって、静謐な演出だったりする。いらね〜〜〜〜。
それ見せられるくらいなら、うす青い湖に霧がかかっていて、早朝のまだ日のない穏やかな水面を白鳥がさらさら泳いでいく風景を見せられた方がずっといい。ずっときれいで、この世の本当のことじゃん。
何が嫌って、それがこの世の大抵の真実みたいになってるのが嫌。それがないと駄目ですか?本当のことではないのですか?となってしまう。私の人生でそれはいらないことなんですけど。そうではないのですか?普通は。
世の中がもっと、あったら人生が豊かになるけど、なくてもいいよね、と言う風潮だったら別に何ともおもわないとおもう。でもそうではないじゃないですか。少なくとも今は。体外受精とかで子供作れる時代に何故?とおもってしまう。
帰結するルートが多すぎる、どこ通っても結局そこにもってっちゃうのかよってなっちゃう。

手をつなぐことで愛を示せませんか?抱き合うことでは?笑いあうことでは駄目ですか?私はいつまでたっても必要以上の粘膜の接触に意義を見いだせない。ままいい年になってしまった。マジかよ。

だから何と言う訳ではないんですけど。
バーミヤンは最近餃子祭りのようなことをしていて、なぜか期間限定でおかゆが復活しています。
期間限定で言うと、ゆずとポン酢と大根おろしのかかった水餃子が、皮もっちもちでめちゃくちゃ旨いです。おかずと言うよりつまみっぽい感じ。
あと恒常メニューだけど油淋鶏が鬼うまい。皮パリッパリで中はしっとりジューシーな一枚肉。その下に敷かれたレタスにも酸っぱいタレ?お酢?がかかっててほんとに旨い。
私はラーメン類の中だとサンラータンメンが一番好きなのですが、バーミヤンのサンラータンメンはマイルドで取っ付きやすいうまさ。全然辛くないけど程よく酸っぱくて、花椒の香りがほのかに漂ってて最高。ドリンクバーも中国茶を取り揃えており、仏手烏龍茶やプーアル茶などあまり他のファミレスで見ないラインナップに目移りしてしまう楽しさ。バーミヤンは本当に最高。皆も行こう。

あと、牛角で食べて飲む回がしたいので、暇な方、ぜひ行きましょう。私は牛角を愛しているので、バーミヤンの次の次くらいに…。

でも、バーミヤンを食べることは、一緒においしいと言うことは、真実の愛ではないですか?私には、わからないところですが。理解できかねるところなのですが、セックスは、バーミヤンより、良い物ですか?私にはどうしても、年を重ねても、いったいまったくわからないところなのです。多分これからも、わからないところです。バーミヤンの、全然辛くない担々麺を、辛くないって笑って食べる方が、ずっと本当ではないのですか?
まあ本当のことなんか誰も、わかりっこないですけれど

■雑記(2019年〜2019年1月後半・飲酒と身体のこと)

(今回おもうがままに綴っていったら本当にヤバめの人っぽい文章で完全支離滅裂になってしまいました。読みづらいです・・・)

前回の日記を公開して知人何人かから温かい言葉をいただけたのがうれしかった。
相も変わらず何もせずする気力もなく生きているが、とりあえず日記を書くことくらいはできるし、何かを書いていると前回の日記に記載したように自身の心が安らぐので何となく書いている。

とはいえ、びっくりするくらい日記にしたためるようなことはしていない。
前回日記を書いた時は比較的薬が効いていたのか落ち着いていたのだが、年明け以降、仕事が始まってから一日も休むことなく飲酒をしている。 飲酒と言うのは基本的にものすごい水分量を摂取することになるので、翌日お腹が緩くなる。というわけで私は2019年基本ステータスに下痢が付随している。2019年下痢便の旅。 えっなんですか今の言葉。最悪なんですけど・・・。

飲酒と言うのが止まらないのはおかしいことであるが、それを自覚して尚やめられないと言うのもおかしなはなしだ。やめりゃあいいのだ。飲まなきゃ良いのだ。でも人はお腹がすいてご飯を食べずに居られるのだろうか?眠くなっても起きていられるだろうか?ばかにされたら怒らないのだろうか?それと一緒で仕事が終われば飲まずにはいられない。
飲酒はおおよその欲求を満たすようでろくにものを食べずとも生きていけるようになってしまった(というより食物が胃を通らなくなった)。体重は計っていないので何とも言えないがひと月ぶりに会った美容院のお兄さん(いつも担当してくれる)に痩せた?ときかれたのでそれなりにやせ細ってはいるのだろう。
たしかに朝は全く食べない、仕事が忙しくなって来て昼もスープをテイクアウトしてオフィスですますことが多い。夜は飲酒のつまみに浅漬けや刺身を何品か。これで年明け以降過ごしている。そりゃ痩せるわ。アホか。
食物を経口摂取しないことの弊害、身体が動かない。
土日は基本昼まで寝ている。起きても身体が動かないのでカーペットの上で四肢大投出。しかも常に眠い。でもずっと同じ姿勢だと腰骨が当たっていたいので時々体勢を変えている。
自分でもだいぶきてんなと思うのだがとにかく殆ど骨と皮みたいになって来ている。シャレにならない。いや、ちゃんと食べる時は食べてる。今日もご飯食べたしね。でも毎日それなりの量を食わなきゃ健康な身体は維持できない。そのためにはきちんと運動して断酒をすることが何より大事だ。 わかっているけど出来ない。
とにかく身体を動かすべきと判断したので、ジムに通おうかなと思いネットで調べたりもした。めぼしいところも見つけたし、自分でもこのペースなら通えそうと言うコースも見つけた。値段も悪くない。あとはジムに行って申し込みするだけ。ここまで来た。でも出来ない。 出来る出来ないのハードルが高すぎる。身体が動かない。なぜ・・・。

基本的に土日は断薬をしている。仕事が憂鬱なら土日にはいらないだろうと言う判断でだ。
でもこれが原因で土日に身体が動かないなら、いっそ飲んでみようか。いや、ただ単に自身の怠惰を言い訳にしているだけだろう・・・。 今週もまた何もせず家に居た。虚無の極地である。私は霞を食って生きている。そんな心持ちにもなる。
風呂に全身鏡がある(いらねえ)。湯船に入る一瞬前に自分の肢体がうつる。あばら骨がでた貧相な身体だ。ジムに行っても5分だってまともに運動が出来なさそうな身体だ。ワンパンで死ぬね。確実に。

全然関係ないけど私はおそらく完全な異性愛者で顔の良い男性が好きだが、性嫌悪も持ち合わせている。
男性という男性、男性と私が判断する全ての人間に自身の身体を触られるのが嫌だ、そして見られることも。
どこかにルーツがある訳でもない感情がある。しかたない。しかし一度つき合っていた人に自身の身体を見られ(見られたこと自体は不可抗力だったのだが・・・)笑われたことがある。なんでだかずっとそのことが私の心に残っていて、ふとした瞬間に思い出すことがある。どこが変だったんだろうと思う。
人の身体は皆人それぞれ、一つとして同じ物等ない。だから私は堂々と銭湯に行くしタオルで隠したりもしない。私は女性の身体をたくさん見て来たし、どれ一つとしておかしいと思ったことがないので、当然それが自分にも適用されると心の底から信じている。 しかし男性はどうだろう。すくなくともこの世に一人は私の身体を笑った人が居る。ならばきっと私の身体はおかしなところがあったに違いない。少なくともその人にとっては。別に今となってはどうでも良い。関係ない話だ。その人とはとっくに別れているし、もうあかの他人だし。でもふとしたときに思い出す。ほら、こんなとき。やせ細った自分の身体が不意に視界に入る時とかね。そういうときに私は自分の姿が限りなく醜く汚らしくばからしく怠惰で恐ろしく滑稽な異物に見えてしまう。やばい怪物みたいに。

思うに複合的な心理状態なのだろう。何が駄目とか良いとか、こうすれば良いとか。仕事だけが悪いのか?いままでそう信じて来たけどもしかして違うのかも。色んなことが駄目なのかも。でもずっとこうして生きて来て、なんで今になってという気持ちもある。私の心は私だけの物なので自分で探すしかないのだが。


痩せた自分の身体が嫌になるなら運動をしてご飯を食べればいい。当たり前のことを当たり前にするだけで良いのにそれをしないのは私の怠惰だ。毎日そう思っているのにどうすべきか迷っている。でも大丈夫です。出来ることからすれば良いのです。私はそれを知っています。


相反する自分に悩まされている。私は大変楽観的であり自分で自分を許すことの出来るおおらかさを持ち合わせているが、一方で非常に怠惰であり且つ狭窄的な視野の持ち主でもあり、そのあたりのバランスが大変に難儀な性格を形作っている。

楽観的な長所は大変好ましい。私は私のそう言うところをとても気に入っているし、人に与えることの出来る美徳としてカウントしても良いと思っている。一方で狭窄的な視野も時には几帳面なバランスを持って仕事に表出されることもありそれ自体もとても好ましい。私は私が基本的に良い人間であると信じている。
だがそれらを覆い隠し尚あまりある短所の大きさよ。それはもう、私と言う人間の美徳など一握の砂のようにちっぽけで恐ろしく空虚な物であると知らしめてくるのだ。仕方がないのだが・・・。
自分で自分を許すことが怠惰であると狭窄的な自分が言うのを止められない。しんどいことだね。


私は私を許したい。許せるとおもう。私が他人なら。でも他人じゃないんだよね。この難儀さよ。
私は多くの人を許したい。多くの人が美徳を持って生きていると信じたい。多くの人が手を取り合うことが出来ると信じたい。信じている。盲目的に信じている。ただこの世で私だけが怠惰でダサくてバカでのろまでどうしようもない怪物として存在していると言う心持ちが消えない。

 

でも私は知っている。本当は私は全然大丈夫だと言うことを。
夜のベランダに立ってぼーっとしていると全然大丈夫じゃんとおもう。
だって私ってば人みしりだけど職場では結構頼られちゃってるし名前で呼ばれて慕われてるし、やっと仕事にも慣れてきたし。私生活でも友人は少ないけど居るし、皆優しいし。最近は定期預金とか確定拠出年金とかにも手を伸ばして老後のこととか考えてるし。もちろんジムだってがんばって通うんだ。 あとは何をすれば良いのかな。脱毛?英会話?簿記の勉強?何らかの資格?


まったく人間として良く在ることの大変さよ。怪物のままで居られたら。私はダサくてのろまで怠惰な怪物。人の形を取ろうとおもったら薬とお酒とお金がかかるね。良く在りたい。良く在りたいよ。できたらずっと永遠にね。

最後に私の好きなバンドが突然新譜を出していて、いつの間に?!とウケてしまったのでリンクはっときます。
まじでさいこ〜。眠たい休日のお昼にひなたぼっこしながら聞こうぜ。
https://www.youtube.com/watch?v=XUSmCRHKcXs

■雑記(2018秋頃〜現在)薬について

昨年の暮れ前の、秋の始まりくらいから病気の診断を受けて何となく今に至っている。

病気というよりなんとなく不調と言う感じの軽いやつだ。それにまあ名前がつくかつかないかみたいな微妙なところを、診断書もらったら仕事量減るだろうなと思って試しに、書いてもらえます?と医師にお願いしたら、ぼんやりしたストレス性の神経症みたいなやつをもらえた。ので便宜上名前がついてるくらいのほんとにぼんやりした感じ。あと医師の話を聞くにちょい適応障害も入っているらしかった。 適応障害というのは簡単に言うとストレスが原因で頭痛になったり腹痛になったり嘔吐したりと、外的にでてくるやつらしい。詳しくは知らない。間違ってたら申し訳ない。

そもそも心療内科なんて一生行くことないと思っていた。

身体の不調自体は一昨年の暮れ辺りから徐々に身体にでていた。

慢性的な頭痛や腹痛、突発的な嘔吐(吐き気)、喉の違和感、動悸など。しかしそれはまあ、良くあることである、生きていれば。それがどうして診断に至ったかというといくつか段階は経ているのだが、最初は健康診断だった。問診時に何となく上記症状を伝え、貧血気味であることを伝えたところ(私はそれまで上記症状が貧血に起因していると思っていた)、採血結果にもよるが一度心療内科にかかってみれば良いと言われた。若い女性には良くあることだと。

しかしこの時点ではまったくピンと来ていなかった。なぜなら自分がそれほど強いストレス下におかれているかといわれれば間違いなくNoであったためだ。そういうのはもっと忙しくて疲れている人がなるやつでしょ。関係ないわ。日常生活に支障が出ている訳でもなし、ましてや心療内科なんて大げさでしょ。くらいのもんであった。

それからしばらくして、飲酒量が激増した。退勤後にどうしても酒を飲まないと電車に乗れなくなった為だ。 乗れないと言うのは、普通の感覚だとよくわからないと思う。というか私にもよくわからない。ただ、漠然とした不安やイライラが退勤後駅まで歩くうちにどんどんつのってくるので、電車の中で落ち着きじっとしていられないのだ。恐ろしい考えが頭の中にずっと居座るのだ。それでしょうがないから勤務地の最寄り駅前の飲み屋でビールやワインを3〜5杯程度飲んで、程よく酔ってから電車に乗ると言うことを毎日繰り返していた。それとは別に家では毎日酒を飲むのだが。

上記は自分でも流石に恐ろしくなった。週7日毎日酒を飲むと言うことはいずれ身体に影響を及ぼすのではないかと。否それ以前に自分はなにかおかしいのではないかと。思うようになった。

それで、ちょうどその時期来ていた産業医に軽い気持ちで話をしてみた。そのときも心療内科に行くことを進められた。その時の言葉が、行ってみたら、くらいの軽いものであったなら未だに私は通院なんかしていないと思う。なにせ常人の100倍腰の重い私である。楽しいことですらめんどくささが勝ってなかなか食指の動かない私である。況や病院なんて面倒くさいものをや…という話だ。

しかしそこは産業医の方が上手だった。

「あなたは重い病気ではない、普通の人だ、だから心配しなくていい。けれど酒に頼るより薬で押さえる方が適切な症状もある。」ざっとこんな感じの話だった。そういわれると、なるほどたしかに病気ではないにしろ今の状態が異常なのであれば一度通院してみるのも悪くないかもと思えてくる。 産業医はさらにだめ押しで、もし君が自分の身内なら一週間以内に病院に行く様説得すると言った。これが実際かなりきいた。今でも旨く言えないけれど、たしかに自身の現状を身内…妹や母にあてはめて考えればなるほど異常であると思うだろう。心配もするだろう。それまで半信半疑だった自分の意固地な部分がするっととれた気がした。それでその日のうちに心療内科の予約を取った。

それから仕事で紆余曲折あり、ワイン一瓶あけ泥酔し記憶を飛ばしたりしながらなんとかかんとか今は落ち着いている。

薬は二種貰っている。毎日寝る前に飲む、長く薄く効くタイプと、日中強い不安に襲われたときに飲む即効性のあるタイプだ。

前者の方を飲んでから精神状態は劇的に良くなった。というより、それまでの自身の精神があまり芳しくなかったことにようやく気がついた感じだ。独り言が減ったり、朝起床しているのにどうしてもベッドから起きれなかったり、リビングで座り込んで動けなくなったりすることがなくなったりした。例えるなら、ぼんやりと凪いだ海の表面を見ている感じの状態が続くのだ。

これは凄いことだと思った。昔の精神病のお薬のラベルは抽象的で独特な絵が書いてあるのでしばしネットでも話題になるが、自分が飲み始めて初めて何となく腑に落ちた感じだ。 精神の乱れとかいうものはこと言葉で表すのが難しい。かなり感覚的なものなのだ。どうしてもあらわせないことで苦しくなったり、楽になるのもそうであったり。なにがどうなっているのかいまいちわからないが、私の場合は自分をまっすぐな状態に保つことが難しいイメージが続いていたのを、横の一本線にすっとひき直してくれるような感じがしている。

後者の薬の方は正直効いてるのかわからない。吐き気や動悸はかなり突発的なので、なおってもそれが薬のおかげなのか、時間を置いたからなのかいまいちわかりづらい為だ。ただし頭痛がしたときには効いた気がするのでやっぱりちゃんと薬なのだろう。

 

そういうわけで普通に何となく生きている。

しかし心中では自分は病気ではないと未だに思っているので、寛解というものが存在するのかどうか自分でもわからない。元から陰鬱で難儀な性格であったのを、たまたま名前がついてしまっただけと言うような気が拭えないのだ。それでもどうしたって頭は痛いし動悸は酷いので仕方がない。薬は手放せないので通院している。しかし問診でざっくりどうですかときかれても、なにが?という感じでいまいち進んでいる感じもない。自分がどうなるのがひとまずのゴールなのか私にはわからない。

薬をやめることがゴールなのならば、いっそ通院をやめた方が良いのではないかと思う時もある。 でも、薬には断ち時、断ち方というものがあるらしく、私はまだ頓服(突発性のための薬)が手放せないので減薬する時ではないようだ。産業医にきいても同じ答えが返って来たので、おそらくそれが正なのだろう。 しかし突発的な吐き気や動悸がなくなることなどこの先あるのだろうか。 客から暴言を浴びせられたり、急な対応を迫られたり、そういうちょっとしたことで動悸は起きるし、時にはなんでもないときに起きることもある。仕事のことを考えると眠れないので、日曜日や祝日明けの夜は頓服も併用してなんとか寝ている状態だ。

仕事量は減らしてもらっている。にもかかわらず状態が良くならないのはどういう理屈なのだろう。自分の甘えではないのかと常々思う。現に上司から暗にそのようなことを言われたりもする。それでも、気合いや心持ちで動悸や頭痛がなくなったらどんなに良いことか。私の身体のことではあるが、私の力ではどうしようもないのだ、情けないことに。

仕事量が減ったからと言って人より仕事をしていない訳ではないのが救いだ。診断書提出前はもっとたくさん仕事をしていた、それが並レベルに戻ったくらいなので、特に周囲から何か言われたりすることがないのはありがたい。

もっと減らしてもらった方が良いのだろうか。でもそうするともっと苦しくなるのは自分なのだろう。出来ることをしないのは気分が悪い。出来ることを出来るだけするのが正しい人の働き方なのならば今の自分は間違いなくセーブをしている状態だ。しかしこれが現状の自分に対して正しい状態なのかもしれない。

一分一秒というレベルで自分の考えが変わるので正直どうしようもない。こうしていままでのことを振り返っている今も、仕事をするという責務を重視する自分と、身体を正常に戻すことを重視する自分が混在している。そもそも仕事を辞めた方が良いような気もしている。職場を変えて心機一転すべきではないかと。しかし現状、職場に不満がある訳ではない(あるにはあるが、人間関係等はおおむね良好なので、そこをもってすると転職は早計な気がする)。そうなるともう、自分の身体が正常に動いてくれるのを待つしかないのだ。別に仕事ができなくなっている訳ではないし、不安に襲われたら頓服を使用してじっとしていればおさまるので、特に職務に支障が出ている訳ではない。しかし漠然とした恐怖や不安は常にそこにあり、薬は手放せず、上席からは今後自分がどうしたいのか自身で決める様迫られている。安寧はない。

 家族の理解も得られていない。どうやら家族は、私の病気は突発的な、風邪やインフルエンザみたいなもので、薬を一時的に服用することで完治すると思っているらしい。それでいつまでも通院したり薬を飲むのはやめる様迫られている。仕方がないので、もう薬も通院もやめたと話して、退勤後こっそり通院している。薬は戸棚に隠し、家族が寝静まった後に飲むようにしている。

何の意味があるのか自分でも分からない。ここまでして飲む必要のある薬なのか。通院している意味はあるのか。自分は元気なのに、無理矢理薬を飲んでいるのではないか。病気ではないのではないか。甘えなのではないか。 誰かがびしっとこうするべきだと言ってくれれば楽なのだろうが、そんな人はこの世には居ない。自分のことは自分できめるしかない。

 

ひとまず薬を飲み続けることにきめた。仕事は続けているが、なにか言われたらやめてしまった方が良いだろうと思っている。転職先はみつからないが、ぼちぼち探しはじめるべきとは思っている。自分の精神衛生上、環境の変化が苦手なので転職はなるべくさけたいと思っていたが、ここまできてしまってはやむを得ない。もちろんなにも言われず、今のペースでゆっくり働けていけるならば、ある程度治るまでは今の職場で治療を続けていくのがベストではあると考えている。

 

こうして昨年からの現状を綴っているいまも喉の違和感がある。思い出したり話をすることはアホみたいに辛い。 こうした極めて私的なことはあまり真剣に周囲に話したりしない様にしている。その後の対人関係に影響を及ぼすことが目に見えているから。 それでも話をする時はあまり深刻にならぬ様さらっと話すようにする。自分のことで気を使わせたり、あいつは病気なのだと思われたりするのも大変苦痛だから。

しかしもうどうでも良くなってしまった。誰かと面と向かってこのようなことを話すことはこの先もないだろうが、しかし代わりに私はこうして文章におこしている。書くことで自分を癒すことは出来るのだろうか。癒すと言うのはかなり大仰だが、まあつきつめると自分の病気は自分だけのもので、誰かがなおしてくれるというより自分がどうしていくかという話になるので、仕方がない。とにもかくにもこの先生きていかなければいけないのだ。

ならば自分の出来る範囲で自分のしたいことをしようときめた。それで、面白くも何ともないこんな記録をつらつら書いているのだ。

書いたところで何か状況が変わる訳ではない。むしろ考えないようにしていたことばかりが思い起こされる。予定のない休日はことさら辛い。自分の人生が恐ろしく空虚で意味のない物としてのしかかってくる為だ。そう言うときにこうして何か物を書いていると随分落ち着いてくる。心持ちがすっと穏やかになる気がする。誰にも話をしないことを文章にして公開するなんておかしいのだろうか。でもどっちにしろ私はおかしくなってしまった気がするので、どうでも良いのだとも思う。

つまるところ気を晴らす為に書いているので、上記の全ての文章に意味等ないのだ。昼過ぎから書き始めて随分かかったが、だいぶ気分が落ち着いて来た。明日また、病院の予約を入れようと思う。

 

すべきことをするしかないのだ。できることは限られているので、とりあえず明日も働いて、そしてゆっくり考えていこうと思う。何のせいで自分がおかしくなってしまったのかがわからなければ病気(じゃないと私は今も信じているが、不調なのは確かであるので便宜上こう呼ぶ)も治らない。でも心当たりもない。働いて、薬を飲んで、考えるしかないならば。しかたあるまいと思っている自分が居る。だってやっぱり、生きるしかないので。平成が終わっても私は生きていくので。はー。そう、生きていくしかないのだ。